ファンタスティック・プラネット(1973)
監督:ルネ・ラルー フランス チェコ・スロヴァキア合作
1973年に日本初公開。日本でも知る人ぞ知る伝説のSFカルトアニメ映画「ファンタスティック・プラネット(邦題)」日本ではフランスのアニメ映画として知られていますが、実は本編のビジュアルはチェコスロヴァキア時代の一流アニメーター達によって作り上げられたということは、残念ながらあまり知られていません。
キャラクター・デザインは「Svatební košile (婚礼のシャツ)」 でも知られるヨゼフ・カーブルトが担当し、背景デザインはヨゼフ・ヴァーニャが担当しました。当初本作の脚本、キャラクターをはじめとする本作のイメージ監修を担当したローラン・トポールの直接の関与は撮影以前までで、本作がクランク・インするとカーブルト達にその全てが託されました。アニメーションの撮影自体もプラハのイジー・トゥルンカスタジオで行われ、チェコスロヴァキアの撮影スタジオに立ち入ることを許されたのは、監督のルネ・ラルーのみでした。本作の切り絵アニメーションというスタイルはチェコアニメの伝統的な手法の一つであり、本作にその独自の手法を取り入れさせたのもチェコ側でした。
このように本作は共産主義下のチェコスロヴァキア国内で撮影されたのですが、その契約は1967年に結ばれました。当時の政治面から見たらそれは特例といえることでした。1968年8月には旧ソ連軍が率いるワルシャワ条約機構軍の戦車がチェコスロヴァキアに潜入するなど、撮影は問題に晒されることもありました。本来のシュール極まりない内容に当局は常に監視の目を光らせており、共産主義政治を皮肉ったものとしてパラノイアをおこし、常に疑惑の目を向けていました。しかし同時にこの映画製作はチェコスロヴァキアにとって莫大な外貨をもたらすものでもあったので、製作を禁止するまでには至りませんでした。本作は完成するまで実に4年の歳月を要したのでした。
Svatební košile 原作: Karel Jaromír Erben 作画/脚本: Josef Kábrt
チェコスロヴァキアを代表する詩人、カレル・ヤロミール・エルベンの Svatební košile をヨゼフ・カーブルトが脚本におこし、作画した短編アニメです。カーブルトの作風が存分にお楽しみいただけます。
Oldřich Lipský オルドジフ・リプスキー
1924年7月4日生-1986年10月19日没
チェコスロヴァキア映画の巨匠
現チェコ共和国南東ペルフジモフ市出身の映画監督であり、生涯を通して風刺と笑いを交えた作品を作り続けた コメディ映画の巨匠です。
リプスキー監督の作品の中で最も有名な映画は、西部劇パロディーである『レモネード・ジョー 或いは、ホー ス・オペラ』(チェコ語題:Limonádový Joe aneb Koňská opera, 1964年)だと思われます。
『アインシュタイン暗殺指令』(チェコ語題:Zabil jsem Einsteina, pánové …, 1969年)はSF映画で、アインシュタインを暗殺しようと未来からタイムトラベルで刺客が送り込まれるという奇抜な設定。
『アデラ/ニック・カーター、プラハの対決』(チェコ語題:Adéla ještě nevečeřela、直訳「アデラは夕食前」、1977年)の主人公は、アメリカのパルプ・マガジンが生み出した探偵ニック・カーター(Nick Carter)で、プラハの街で食人植物と対決します。『カルパテ城の謎』(チェコ語題:Tajemství hradu v Karpatech, 1981年)は、ジュール・ヴェルヌの原作で、スチームパンクの魅力はそのままだが、内容は抱腹絶倒なコメディに変わっています。日本で見ることができるリプスキーの映画はどれも奇想天外で、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しい映画ばかりです。
ちなみに、同じくチェコ出身であるヤン・シュヴァンクマイエルとその妻エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーが『アデラ/ニック・カーター、プラハの対決』、『カルパテ城の謎』に特殊撮影と美術で参加しています。
これはシュヴァンクマイエル夫妻が活動休止に追いやられていた時期のことでもあります。
リプスキーはチェコにて20作以上の作品を制作したが、現在、日本で満足に鑑賞できる作品は上記に挙げた『レモネード・ジョー 或いは、ホース・オペラ』『アデラ/ニック・カーター、プラハの対決』『カルパテ城の謎』の3作のみである(これらは株式会社エプコットよりDVDが発売されている)。『アインシュタイン暗殺指令』はかつてVHSが発売されていたが、現在は生産中止となっています。
Jan Nemec (ヤン・ニェメツ)
1936年7月12日 – 2016年3月18日
チェコスロヴァキア映画の巨匠
チェコ・ヌーヴェルヴァーグの異端児と称されるヤン・ニェメツ監督は
1936年7月12日、チェコスロヴァキア(現チェコ共和国)の首都プラハに生まれ、1954年、プラハ芸術アカデミー映画学部(FAMU)監督科に入学。在学中の助監督経験を経て、1960年の卒業制作として、アルノシュト・ルスティク(Arnošt Lustig)が作者自身のホロコースト体験をもとにした短篇『2回戦 (Druhé kolo)』を翻案し、短編映画『一口分の食料 (Sousto)』で、同年のアムステルダム学生映画祭でオランダ映画連盟銀薔薇賞、翌1961年、オーバーハウゼン短編映画祭で大賞、メルボルン国際映画祭では特別賞をそれぞれ受賞、24歳にして国際的な名声を得る。
プラハのバランドフ撮影所に入り、1964年、長篇映画『夜のダイヤモンド(Démanty noci)』(アルノシュト・ルスティク原作)で長篇監督としてデビュー、同年のマンハイム国際映画祭で大賞、翌1965年にはペサロ映画祭で長編映画国際批評家賞を獲得しました。同作は日本でも1968年9月にATGの配給で公開されています(アート・シアター61号)。翌1965年、イジー・メンツル、エヴァルト・ショルム、ヴィエラ・ヒチロヴァー、ヤロミル・イレシュというチェコの若手監督によるオムニバス映画『海底の真珠 (Perličky na dně)』(ボフミル・フラバル原作)に参加。1966年に、傑作『祭りと招待客(O slavnosti a hostech)』や人気歌手マルタ・クビショヴァーを配役した『愛の殉教者たち(Mučedníci lásky)』を撮影しました。
1968年8月21日にチェコスロヴァキアはソ連の戦車に侵攻された際、彼が撮影した材料を国外に持ち出し、長編映画はドキュメンタリー『プラハのためのオラトリオ (Oratorio for Prague)』(製作クロード・ベリ、ジャン=ピエール・ラッサム)を作りました。同作は「プラハの春」に終焉をもたらせた1968年のソ連のプラハへの軍事介入を描き、発禁処分を受けましたが、ニェメツのフッテージは、結果、侵略映像のストックとして無数の国際報道機関に使われました。のちにニェメツは、フィリップ・カウフマンの『存在の耐えられない軽さ』(1988年)の原作(ミラン・クンデラ)翻案のアドヴァイザーでもあり、同作では、集められた侵略についてのニェメツのオリジナルな映画作品が使われました。
1974年、西ドイツに政治亡命し、フランス、スウェーデン、イギリスのテレビ界で活躍したのちに渡米。
1989年12月チェコに帰国。1993年、映画製作配給会社「ヤン・ニェメツ・フィルム」を設立。
ヤン・ニェメツの妻にマルタ・クビショヴァー、エステル・クルンバホヴァーがいました。
Karel Ješátko カレル・イェシャートコ
(1923年5月16日〜2013年8月18日)
チェコスロヴァキア映画スチールフォトグラファー
1950年以来、プラハ バランドフ映画撮影所のスチールフォトグラファーとして活躍。
チェコを代表する数々の名作の撮影現場を写真に収めた。
ユライ・ヘルツ監督作品のほとんどのスチール写真は彼が担当しており、チェコヌーヴェルヴァーグ映画時代のほとんどの作品を記録している名スチールカメラマンとして知られていました。
恵比寿のギャラリーGalerie LIBRAIRIE6/シス書店にて
ユライ・ヘルツ監督映画「火葬人」+カレル・イェシャートコ写真展を2015年8月12日(水)~8月29日(土)まで開催致しました。
彼が携わった代表的な作品として
「Měsíc nad řekou (川の上の月)」
「Vlčí jáma (オオカミの穴)」
「Až přijde kocour (猫に裁かれた人たち)」
「Starcí na chmelu (ホップ奉仕)」
「Limonádvý Joe (レモネード・ジョー)」
「Spalovač mrtvol (火葬人)」
「Petrolejové lampy (灯油ランプ)」
「Morgiana (モルギアナ)」等多数が挙げられる。
Ester Krumbachová
(エステル・クルンバホヴァー)
衣装デザイナー・舞台美術家・脚本家
(1923年11月12日〜1996年1月13日)
エステル・クンバホヴァー(Ester Krumbachová)はチェコのヌーヴェル・ヴァーグ作品の立役者とも言える美術家、衣装デザイナー、脚本家、演出家、舞台美術家です。ヴィエラ・ヒチロヴァー、カレル・カヒニャ、オルドジヒ・リプスキー、ヤロミル・イレシュ、ヴィェラ・ヒチロヴァーなどの巨匠たちの代表的な作品に名を連ね、チェコ・ヌーヴェルヴァーグ映画制作に大いに貢献し、その時代の作品を語るに欠かせない重要なアイコンの一人です。オルドジヒ・リプスキー監督の「第1世紀の男」、ヴィェラ・ヒチロヴァー監督の「ひなぎく」、ヤン・ニェメツ監督の「夜のダイヤモンド」、「祝宴と客」や「愛の殉教者」、カレル・カヒニャ監督の「耳」、ヤロミル・イレシュ監督の「ヴァレリエの驚異なる一週間」、自作映画「チェルト技師の殺人事件」などのチェコヌーヴェルヴァーグの名作は彼女をなくしては産ぶ声すらあげることがありませんでした。チェコの映画史においてかけがえのない存在でした。なかでも美術・脚本(監督と共同)・衣装デザインを担当した日本で根強い人気を誇る「ひなぎく」や「ヴェレリエの不思議な一週間」などは、クルンバホヴァーの芸術への観念そのものを表しています。
Sedmikrásky ひなぎく トークショウ全文
『ひなぎく』上映後のペトル・ホリー(チェコ蔵主宰)によるトークショウの全文です。
『ひなぎく』の撮影の舞台裏・当時の時代背景など詳しく解説しています。
聞き手:くまがいマキ(チェスキー・ケー代表)
ー今日は『ひなぎく』がつくられた当時のチェコ(チェコスロヴァキア)の様子や、撮影の舞台裏の話をお聞きしたいと思いますこの作品は2人の主人公が非常に魅力的ですが、2人ともオーディションで選ばれたそうで、それまで演技の経験の全くなかった2人がどのように選ばれたかをまず教えていただけますか?
『ひなぎく』の前に、『水底の真珠』(1965年)というオムニバス映画にヒティロヴァー監督も参加して非常に注目を浴びました。その頃に既に『ひなぎく』の脚本をエステル・クルンバホヴァーと共に書き上げていましたが、主人公をどうするかというのは最後の最後まで決まらなく色々と悩んだらしいです。オーディションも色々やっていたけれど、そこでは見つからず困っていたところ、まず、マリエ1をシネマクラブで見つけたそうです。どこからか、女性の声が聞こえてきて、ピーチクパーチクと面白くて、顔を見る前にその声がいいなと思い、マリエ1にようやく出会えた。
ーマリエ1役のイトカ・ツェルホヴァーさんは帽子屋の店員さんだったとか?
普通に働いていて、演技の経験も全くなかったそうです。フランスのヌーヴェルヴァーグや、日本の60年代もそうだったと思うんですが、ノンアクターがチェコでは主流で、例えば、ミロシュ・フォルマン監督もプロの俳優を使っていません。 65年にチェコで何千人という若者を集めて行う「体操ゲーム」(Spartakiáda)が行われました。北朝鮮のマスゲームのような国のイベントです。社会主義国でしたから。プラハに全国から若者が集まってきてスタジアムで共産党の幹部の前で同じ体操を行います。ヒティロヴァー達はそれに目をつけて、いい人がいないかと若者たちに紛れて探し、オーディションのビラを撒いて、来てくださいと宣伝をしたら、何人かが来てくれて、最後の最後で、マリエ2が来たそうです。
ーツインテールの方、イヴァナ・カルバノヴァーさんですね。学生さんだったとか?
そうです。リベレッツという町の普通の学生でした。元々、1人は監督の仲のいい女優さんにするつもりで決まっていたそうですが、相手役との組み合わせが上手くいかず、結局、素人2人になったそうです。
ー全然、演技経験のない2人を監督はどう演出したのでしょうか?
ヒティロヴァーさんですから、怒鳴ったり(笑)。灰皿を投げるわけじゃないですけど、容赦のない監督さんでしたから。
ー裸のシーンもありますよね。
裸になった方のマリエ1役の彼女はすごく恥ずかしがり屋で、難しくて。もう1人のマリエ2役の方は、なんでもやっちゃうタイプで、丁度、逆の性格の組み合わせだったんですね。 彼女達が使うチェコ語はプラハ訛り、下町訛りで、ものすごく汚いですね、発音は。それを聞くと俳優じゃないということが判るんです。女優さんの発音じゃない、生々しい。チェコの場合はFAMU(プラハ芸術アカデミー映画学部)を卒業しないと俳優になれないというエリートコースがありましたから。
ーヒティロヴァー監督の経歴も面白いですよね。
最初はモデルさんで、それから1950年代『ゴーレム』という映画にスカウトされて、三人官女の1人として出演して。色々と社会で働いた後にFAMUに入学し、バーブラ監督という伝説的な方のクラスに入るんです。だから、チェコヌーヴェルヴァーグの他の監督達、ヤン・ネメッツやエバルト・ショルム、ヤロミール・イレシュといった同級生達よりも彼女は少し年上なんです。 ヒティロヴァー監督のお父さんは駅長さんだったため、映画によく電車が登場しますし、田舎だったからりんごが好きで、りんごも多くの映画に出てきます。
ー『ひなぎく』がつくられたのは1966年ですが、68年のプラハの春の予兆のような感じがするんですが。
そうですね。自由化が進む緩和の時代。それでも勿論、検閲がありますよ。だからこの映画がつくられたということは、検閲官が馬鹿だったということなんですね(笑)。シナリオを読んで意味するところを理解しない、行間を読むような教養がなかったといいますか。
ーシナリオの段階の検閲をかいくぐって撮影にこぎつけて、完成した作品の試写を見て国会議員が国家予算の無駄遣いだと怒ったそうですね。
有名な話ですが、国会の会議の議題としてこの作品が取り上げられて「共産主義を支持する我々はこの映画を見てどう思えばいいのだろうか。国民、労働者が尽力しておいしい料理をつくったとしても無駄にされ、踏みにじられている、いいのだろうか?」と真面目に議論された。ただ既に監督の名声は欧米に広がっていて、共産圏でこういう映画がつくられたということが外国の映画関係者には衝撃で、影響を受けた映画人も多かった。
ー政治家は映画を公開したくなかったけれど、労働者向けの試写会でウケて、結局、公開はされたそうですね。
労働者はヒティロヴァーが本当に見せたかったものを見たんだろうなと思います。面白がったし、笑った。2人の悪さや、ずる賢さに対して。どんな悪いことをしても可愛くすれば許されるという破壊の仕方・方法をヒティロヴァーが見せてくれたんじゃないかと思うんです。だから映画は「破壊」がメインテーマですね。腐った社会を写す像だと監督は言っています。
ー『ひなぎく』の次の作品も問題視されて監督は映画を撮る機会を奪われますが、それはやはりプラハの春の終わりとも関係していますよね。
そうです。チェコは1960年代に入って、ようやくスターリン主義が終わります。50年代にプラハに建てられた25メートル位のスターリンの像が、1962年頃にダイナマイトで破壊され撤去されます。
ーチェコというのは旧ソ連の社会主義陣営の中に入っていて、共産党やソ連に対する抵抗がずっと国民の側にはありますよね?
50年代というのは、抵抗すると死刑になるという恐ろしい時代でした。それがようやく1962年頃になり、映画界にヒティロヴァー、リプスキー、メンツェルという若い世代が出てきて、それまでの社会主義リアリズムに反抗するようになる。検閲の中でも、優しい自由、生意気を言っても通るという時代が60年代にはしばらくあった。でも結局、1968年にソ連の戦車がプラハに入ってきて全部駄目になりました。(註:ソ連が率いるワルシャワ条約機構軍が集団的自衛権行使の名目で軍事介入し、プラハの春を弾圧した)
ーチェコ全土が武力制圧され、100名以上が殺される中、国民は非暴力抵抗をしました。
その時、プラハのラジオ放送局は最後まで「(暴力に対し)抵抗しないで下さい」と言っていました。抵抗すると余計に大変なことになるので。(註:電信局の女性達は、武力制圧の状況をこっそりと無線で知らせ、世界中にそのことを知らしめた)それでプラハの人達は花を持って、ソ連兵を説得しようとしたりしましたが結局駄目でした。一夜にして全てが引っくり返されてしまった。(註:政府に対し自由を求め活動していた人々が秘密警察に摘発されるとの情報が流れると、逮捕を遅らせようと、一夜にして、街中から通りの名前、番地、アパート名などの標識や文字が撤去され、ヴァーツラフ広場の「自動車進入禁止」の標識が「戦車侵入禁止」に替えられ、「モスクワへ1800キロ」の標識だけが残されたという) それまでも「不自由の中の自由」でしたが、その自由がなくなってしまった。例えば、67年とか8年頃は、西側にも行けたんですね。50年代は全く駄目でしたが。それが、68年の8月20日から21日にかけて戦車が来て、69年から非常に締め付けが厳しくなった。ヤン・ネメッツ監督やミロシュ・フォルマン監督は、2人とも国外に亡命するわけです。他にも作家のミラン・クンデラがそのしばく後に、パリに亡命しました。70年代に入るといわゆる「正常化の時代」になる。
ー自由な路線に寄っていたのを共産党の「正しい」路線に戻すという意味で、表現の自由もなくなってしまう。
その中で、ヒティロヴァーも、シュヴァンクマイエルも国内で、6〜7年映画を作らせてもらえない。ブラックリストに載るわけです。
ー名作小説の映画化という形で通りやすそうなシナリオを提出して検閲を逃れようとしても、撮らせてもらえなかったんですよね。
美術と脚本を担当したエステル・クルンバホヴァーは90年代までずっと、全く、仕事をさせてもらえなかったんです。
ークルンバホヴァーは自分の監督作品もある方ですね。
脚本家でデビューして、美術家・衣装デザイナーとしても有名でした。脚本は、例えば、ヤロミール・イレシュ監督の『ヴァレリエと不思議な一週間』や、ヤン・ネメッツ監督の『夜のダイヤモンド』もそうですし。ちなみに今日(7/12)がネメッツ監督の誕生日です。まだご存命です。クルンバホヴァーはネメッツの奥さんでもあったんです。みんな繋がっています。『ひなぎく』のカメラマン(撮影)のクチェラは当時、ヒティロヴァー監督の旦那さんでしたし。 俳優はノンアクターでしたが、当時の色々な映画を見ると、同じような人達が出てくるんです。『ひなぎく』の中で、マリエ1の恋人が登場しますね、ピアノを弾いている。彼はヤン・クルサークと言いまして、色々な映画音楽も作っている作曲家なんです。『ヴァレリエ〜』にもすけべな宣教師で登場します。それからトイレのシーンで、(背中のあいたドレスを着て)「飛べない天使」とマリエ達に言われるすらーっとした女性(ヘレナ・アニージョヴァー)も、『ヴァレリエ~』でお婆さん役をやっている人なんです。それからユライ・ヘルツの『火葬人』という映画があるんですが、その中では彼女は妖精の役で出てきます。彼女は実は映画の衣装さんなんです。だから、プロの俳優ではないんです。
FAMU(プラハ芸術アカデミー映画学部)というのは少数精鋭で、イジー・メンツェル監督とヒティロヴァー監督は同期だったり、あの時代に出てきた人達は関係が深いですよね。みんな協力し合って、お互い愛し合ったり、嫌いになったり(笑)。
ーチェコ映画の歴史の中で、ヒティロヴァー監督や『ひなぎく』はどういう位置づけなんですか?
知らない人はいない、そうかといって、今の若い世代はあんまり見ない。日本とは違うので、すごくもったいないです。今年の3月12日にヒティロヴァー監督は亡くなりましたが、ある人達にとっては大変な衝撃なんですが、若い人達は「年を取った映画監督が亡くなったんだ」という程度で。60年代のチェコ・ヌーヴェルヴァーグは、相当な映画好きじゃないと残念ながら見ないですね。ただ、国営のチェコテレビでは、毎週、1作品は当時の映画が紹介されていると思うんですが。 ヒティロヴァーは、娘さんもデザイナーで女優もやっていますし、ヒティロヴァーが先生としてFAMUで教えた世代の映画人も、今、40〜50代で活躍していますし、色々なものが受け継がれていると思います。 ヒティロヴァーには色々な逸話があって、彼女は声というか発音が悪かったんです。「r」の巻き舌が出来ない人で、スレスレの声なんです。みんなその声音を物真似していました。彼女のお葬式は盛大に営まれて色々な人が追悼のスピーチをしていました。そしたら途中で、突然「下手くそだよー!」「デタラメー! そんなの読んじゃ駄目ー!」というヒティロヴァー監督の声がしました。生前、誰かが撮影現場で録音した彼女の声をお葬式の時に流したんです。みんな騒然となって、泣き笑いに。演出だったんですね。ひょっとしたら、ヒティロヴァー自身の生前からの演出プランだったんじゃないかと思います。まるで鶴屋南北みたいに、自分のお葬式の演出をしていった。
ーヒティロヴァー監督は非常にパワフルな方で、91年に来日して日本各地をご案内したんですが、行く先々で騒動がありました。
お兄さんと一緒にいらしたみたいですね。
ーお兄さんも一緒だということを、私たち全く知らなくって、いきなり来られてびっくりしました(笑)。
お兄さんはオーストラリア在住で、亡命されていて、亡命したことで、ヒティロヴァー監督も色々大変だったようです。 この本(『Věra Chytilová zblízka』)の中で、ヒティロヴァー本人が言っているんですが、「秘密警察は、私のいけないところを知っていたけれど、私も彼らのいけないところを知っていたから結局、彼らは、私にとても酷いことは出来なかった」と。何度も取り調べを受けたらしいです。69年から70年代に。(秘密警察に協力している)映画の幹部の人達のことを彼女も色々知っているわけですから、しばらく映画を撮れなかったけれども、逮捕されるようなことはなかった。取り調べを受けている時も、とても魅力的だったし、有名な人物だったし。
ー実際に逮捕された人はいるんですか?
もちろんいます。例えば、ヤン・ネメッツ監督。彼は『パーティーと招待客』という映画を撮るんですが、主人公がレーニンのような顔をしていたために、(共産党批判と見られ)それは駄目だということで、逮捕。
ー命がけですよね。
そうですね。でもこの本を読むと楽しかったらしいですけどね。「そういう時代だったから面白かった」って(笑)。ヒティロヴァー監督は世界的にも有名で、アメリカでも絶賛されて、一度、60年代ですがアメリカに行くことを政府に許されて、その時はアンディ・ウォホールに会ったりしているんです。
ー最後に、会場の皆さんからも幾つか質問を受けたいと思います。
質問:日本語の字幕に翻訳した際に、チェコ語からだったんでしょうか? 英語からだったんでしょうか? 字数の制限もあるとは思うんですが、チェコ語ではもっと魅力のあることを言っているんじゃないかと思ったのですが。
ーチェコ語と英語のダイアローグリスト、シナリオがあってそこからでした。うちの父が字幕を作ったんですが、誤訳の部分もあって、実はずっと直したいと思っています。
例えば、「no, no, no(ano, ano, ano)」と言っているところは相槌なんです。だから(マリエ2がショールをマリエ1にまいてもらうシーンは)「ダメ、ダメ、ダメ」ではなく、あのショールはあれでいいんです。「いいね」で、ダメではない(笑)。
質問:2人がしゃべっているしゃべり方が、すごく子どもっぽい感じがするんですが。
そうですね。やっぱり若い感じ、可愛くっていうか、子どもっぽいところもありますね。最後の方のシーンで「私たち幸せね」という台詞がありますが、チェコ語で普通は「šťastné (スチャストネー)」と言うんですが、彼女は「šťastná(スチャストナー)」とか、「アー」と、ものすごい発音で、それはいけない(笑)。(註:後で、シナリオを確認しましたら、わざと「šťastná(スチャストナー)」と書いてありました) 言葉はこの映画の中で非常に重要で、音楽も素晴らしいですが、言葉のリズム・抑揚というのはすごく大事なんです。彼女達の衣装などは可愛いんですが、それとは裏腹に、いけないしゃべり方をする。また、突然『ドイツレクイエム』の音楽が入ったりして、部屋の中で火を燃やす。あのシーンはチェコ映画の中で一番いい場面の一つじゃないかと僕は個人的に思うんです。美しいです。
質問:最後の「踏みにじられたサラダだけを可哀相と思わない人に捧げる」という意味は?
あれも実は誤訳です(笑)。(直訳は「踏みにじられたサラダだけを可哀相だと思う人に捧げる」)この映画を観て「料理がもったいない」としか思えない人達(サラダしか可哀相だと思わない人達)は可哀相だというふうに言いたかったと思うんですよね。それは明らかに検閲官や当局へのメッセージだと思うんです。ものすごい皮肉なわけです。最初と最後に空爆の映像があって破壊がありますが、ヒティロヴァーはこの本の中で「破壊を笑ってはいけないんだけれど、結局、この映画はコメディタッチなんだよね」というようなことを言っているんです。
ー当時のチェコ人にとって、最後のメッセージが皮肉だということは伝わっていたんですよね?
伝わったと思いますね。映画に出演したノンアクターの方達も、年齢からいって第二次世界大戦を経験した人達ばかりですから。主人公の2人以外の出演者ですね。年寄りの男性とか、トイレのおばさんとか、みんな戦争の恐ろしさを知っていると思うんですけど。それをあえて暗いところを笑い飛ばすというのがチェコ人にはあると思うんですね。有名な話ですけど、第二次世界大戦でヒットラーの右腕であったハイドリッヒ司令官がプラハにいて、結局、暗殺されるわけですが、彼が「チェコ人というのは笑う野獣だ」というふうに言っているんです(笑)。(註:ハイドリッヒはその残虐さから「金髪の野獣」と呼ばれていた)
ーそれは褒め言葉ですね。
チェコ人にとってはすっごい褒め言葉。ハイドリッヒの時代は暗黒で沢山の人が殺されるんですが、それでもチェコ人は笑いながら堪える。
ータフな人達ですよね。
建前と本音を使い分ける。日本人と似ていますね(笑)
シアターイメージフォーラム渋谷
『シュバンクマイエル映画祭2015』初日、「アリス」上映後のトークショウ全文
2015.2.21(土)
出演:ペトル・ホリー(チェコ蔵代表) = P ヴィヴィアン佐藤 = V
V:私はいちファンとしてヤン様、ヨン様じゃなくてヤン様のファンなんですけれども(笑)、ホリーさんは監督が来日する時にはいつもアテンドして色々なところに連れて行かれたり通訳されているのですが。今回、映画祭やトークショーの情報を例えばFacebookなどにアップすると「学生の時に観ました」とか「懐かしいです」というような返事が返ってきます。
P:意外な方が観て下さっているみたいですね。
V:日本の、特に女性にとって、ヤン・シュヴァンクマイエルというのがチェコの日本とは違った国の作家というより「ソウル作家」というか、自分達の心の作家みたいな感じがあるように思えます。
P:本人に言うと、びっくりすると思います。
V:チェコとは捉えられ方が違うような気がします。
P:(チェコでは)色々いる監督の1人ですから。好きな人は好きですけれど。
V:チェコで大きな特集が組まれたりはするのですか?
P:毎年6月末にカルロヴィ・ヴァリという温泉の町で国際映画祭がありまして、数年前にヤン・シュヴァンクマイエルは映画貢献賞というのを受賞されて、その時に「外に出たら僕は知らない人に挨拶されてしまった。初めてのことだ」(笑)と言っていましたので。
アート系のシネマクラブや映画館では上映されますし、長篇の新作を撮った時に、街の中心地、例えばプラハの有名な映画館で上映があったりはしますが、それくらいですよね。
V:シュヴァンクマイエル監督のおうちが、個人博物館みたいなのですよね?
P:そうですね。プラハ城の近くです。ギャラリー・ガンブラというのがありまして。シュヴァンクマイエルさんが60年代に購入した物件で、プラハの中でも非常に古い一画です。それもまた気紛れなことに開いてたり、閉まってたり。よく「いつ開いているのですか?」と聞かれますが「知りません」って、監督次第で。
V:私の周りの日本人の女の子達も結構、行っている人がおります。
P:私もプラハに帰省する時にご挨拶とかに行きますけれど、いつも誰か周囲にいます。
V:出待ちで。
P:建物にはバルコニーがあって、その上に大きな、(亡くなった奥さんの)エヴァさんと作られたオブジェがあるので、判りやすいですけど、最近はいっつもドアが閉まっているらしいですね。
V:行って開いていればラッキーにも見れる。
P:入ると、あ、監督いた。ということになるのですが。御年、今年81ですから。
V:でもこれからも新作があるそうですよね。
P:新作は今、カレルとヨゼフ・チャペックという劇作家の兄弟がいまして、(日本でも)築地小劇場とかで戦前、上演された作家で、『虫の生活』というお芝居がありまして、それを題材に今度、映画を撮るという嬉しい朗報が。
V:楽しみですよね。81歳というと昭和だったら9年ですか?
P:西暦で1934年ですね。でも毎日サプリメントとかいっぱい飲んでいるので。朝鮮人参とか(笑)。
V:その世代の監督やアーティストは元気ですよね。去年、アレハンドロ・ホドロフスキー監督が来日しましたけれど、彼は86歳。奥さんは40歳。全裸でインタビュー受けた映像がありましたからね(笑)。
P:本当に皆さん元気ですね。
V:日本でも昭和一ケタのアーティストとか元気じゃないですか(笑)。
P:会うと本当に全く年を感じないし、羨ましい。
V:何回も日本に来て、ラフォーレでも展覧会をやったり。
P:日本好きで有名でもあります。本当に深いところで、例えば、お芝居でも歌舞伎ですとか、人形浄瑠璃が好きな方で、(来日の度に)毎回、観たがっています。
V:普段、どういう方なのですか?
P:中華料理好きな方ですね(笑)。四川料理が大好きで。(2011年の)震災の年に2回、来て下さって、2回とも10日間、昼・夜は、中華料理か韓国料理(笑)。
V:ホリーさんは(辛くて)胃がもたれたって言ってましたよね。私は「ぬいぐるみ人間」って監督に呼ばれているのでしたよね(笑)。
P:歌舞伎でもエロ・グロ・ナンセンスが好きな方で、最初に通訳したのが(2001年の)9.11の時で『オテサーネク』の来日の時でしたが、染五郎さんの『女殺し油地獄』を歌舞伎座で一緒に観て、始まる前にちょっと解説をさせていただいて「油の場面で、みんな油まみれになる」と話したら、「いつ油が出るの?」と隣で聞いきて、それしか観たがらないみたいな(笑)。殺しの場を観たがるのですね。
あと、東京に来ると必ず、例の剥製(笑)。「私の動物たち」と監督は呼んでいます。
(註:『アリス』や『自然の歴史(組曲)』でもよく剥製が登場し、シュヴァンクマイエル氏の展覧会では剥製を使ったオブジェ作品も多数、展示される。2001年の来日で、ホリー氏が案内した古物商がお気に入り)
V:うちにも実は熊の剥製が三体あるのですよ。場所をとってしょうがないのですけど(笑)。売りたくて。外国の方が買おうとした時があったのですが、ワシントン条約で持ち運べないみたいです。
P:監督が日本で買われたセンザンコウとか、新作にも出るのじゃないですかね。
V:今回の映画祭の初日・1回目の上映は『アリス』でしたが、『アリス』は圧倒的にシュヴァンクマイエルの作品の中でも人気があって、皆さん思い入れがあるみたいですよね。この作品は珍しく英語ですよね?
P:私が(チェコで)観たのは、チェコ語です。製作が(チェコではなく)外国なので、英語にアフレコしたものが配給されているようです。
V:フライヤーでも『アリス』が表に使われていて、かわいいイメージですが、観るとやっぱり「シュヴァンクマイエル」ですね(笑)。
P:「シュヴァンクマイエル」ですね。キャロル(の原作)と違うのは、台詞がないというのが一つ。原作はアリスが喋ってばっかりですが、監督は、言葉より、雑音、最初、服を手で払っている音とか、そっちの方を重視しています。
V:原作では(チシャ)猫が出てきたりしますよね。
P:余計なものは外す。
V:監督にとっての余計なものね(笑)。
P:『アリス』は久しぶりにスクリーンで観ましたが、いいですね。
V:ここ(シアター・イメージフォーラム)で上映した『ひなぎく』も同じですが、DVDを持っていても、レンタルショップに並んでいても、映画館で観たい。好きな映画はDVDで買うこともあるのだけれど、買ったからっていって、映画を理解したことにならないじゃないですか。全く別のことなのですよね。だから「映画を映画館で観る」という「経験」をする。
P:映画館の魔力というのでしょうか。
V:例えば大学時代に授業で観たとか、その時の思い出があるとか、今日もわざわざ午前中から来て並んで観たとか、そういう唯一無二の「経験」なのですよね。
今日の映画もね「ザ・シュヴァンクマイエル」って思いますよね、後半、特にね(笑)。(アリス役の)女の子、女優も、よくつき合ってましたよね、この撮影に(笑)。
P:大変だったと思いますよ。彼は厳しいらしいので。特に細部に拘っているので。女の子の口は、アップの時は、別の人の口です。女の子は全体的にいいのだけど、あの口は気に喰わないって言って(笑)。「君じゃなくて、違う人だよ」って言われて、(女の子が)泣き出したり(笑)。
V:女の子はとてもラブリーな感じですが、映画的にすごくよく出来ていますよね。語り部と主人公を同じ人が やっている。構造が複雑になっているのですよ。ゴダールも同じ構造のものがありますよね。
P:斬新ですよね。
V:ラフォーレの展覧会の時、今回の映画祭では上映されない映画『ファウスト』の大きい人形のオブジェがいっぱいありましたよね。あれ、私、怖くなっちゃって、サタニズムだと思いました。
P:サタニズムというか、ヨーロッパでは「ファウスト伝説」というのがあって、ゲーテが『ファウスト』を書く前に、人形劇でもって題材があってチェコでも上演されていた。だから私達が観る場合「ああ、子供の時、人形劇で観たな〜」という感じで。サタニズムというより、何と言うのでしょうかね、黒魔術。まあ、一緒ですけどもね(笑)。
V:私は好きなのですけども(笑)、あれをラフォーレでやっているというのが凄いな~って思って。で、ゴスロリっ子たちが普通に見ているっていうのが怖いなって(笑)。
P:監督は非常にそれをいつも驚いています。大きなイエス・キリストの人形もありましたよね、釘付けの。フェティッシュというか斬新なね。
V:斬新というか伝統的なね。シュールレアリズムのね。
P:そうです。何よりもまず、監督はシュールレアリズムの系統で、チェコでは第三世代ですね。(シュールレアリズムは)フランスからヨーロッパにずっと広がりまして。
V:アンドレ・ブルトンとか。日本ではシュールレアリズムっていうと、変わったものとか、潜在意識とか、夢判断とかの側面で捉えられるけど、元々はアナーキスト(無政府主義者)の傾向が強いですよね。
P:シュールレアリズムは芸術ではないです。
V:政治運動なのですよね。ヤン様はどうなのですか?
P:好きだからやっているだけで、あまり政治とは関わらないし。社会主義の時代には、幾つかの映画がお蔵入りになったりしましたが、それは「検閲機関の勝手な解釈だ」って本人はいつも言っています。それだけ人間の想像力は素晴らしいということで。
V:私達、去年から、シュヴァンクマイエルさんが美術を担当している映画を自主上映しているのですけど、あれは70年代の作品ですか?
P:そうですね。ちょうど(監督が)自作の映画を(検閲による判断で)政治的に撮れなかった時期で、収入がないと生きていけないので、周りの仲間達が監督に美術を頼んだりして、(リプスキー監督の)『カルパテ城の謎』とか『アデラ』に関わって。それを(ヴィヴィアンさんと)一緒に上映させていただいて。
V:監督と、エヴァさんの関わった作品もね。
P:亡き妻のエヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーさんですね。彼女は画家で非常に監督にとって大事なのですよ、作品を創っていく過程の中で。
V:展覧会もエヴァさんとの二人展なのですよね。
P:それは監督のたっての願いで、多分、最初にやった葉山(神奈川県立美術館で2005年に開催)よりラフォーレ(原宿のラフォーレミュージアムで2007年と2011年に開催)の方がエヴァさんの作品の分量が多かったと思います。非常にあの方は、魔女、いい意味で魔女でしたね。
V:う〜ん、ミューズでもあり。
P:(エヴァさんが2005年に)亡くなられて、監督は大丈夫かなと思った時に、また春が来た。新しいパートナーがいるのですけど。
V:モテモテですね。
P:そうですね。すごく若返りましたよ。眼鏡もいつもおじさんぽい大きな眼鏡をしてたのが、突然、赤いフレームの眼鏡になってたり(笑)。
V:新作でも来日して欲しいですよね。
P:今、向こうで資金集めに苦労しているらしいのですけど。本当に来ていただきたいですね。今度の展覧会も浅草橋で3/7からシュヴァンクマイエル展をパラボリカ・ビスというところでやりまして。
(註:シュヴァンクマイエル展は5/11で開催終了。秋頃、再展示の計画もあり)
V:そこでは作品も売っているそうですね。
P:そうですね。映画の資金集めということで、作品を売ってもいいということで、買っていただけます。
会場からの質問:アリスのシーンで机が開いて異次元に入っていくというと、私達日本人にとっては『ドラえもん』が思い浮かぶのですが、日本のマンガは監督はご覧になっていますか?
P:当時(のチェコ)は、恐らく日本のマンガは(チェコには)ないです。今も監督は見ていないと思います。机の引き出しに入る場面は、チェコでは70年代のカッパの映画がありまして、洗面所にすっぽり入る場面があって、全く同じような特撮です。
会場からの質問:アリスがインクを飲んだり木屑を食べたりしていますが、あれは本物ですか?
P:恐らく飲んでいるインクは本物ではないですけれども、(インク瓶の中に)指を差し入れてインクが取れなくなるのは本物で、舐めるシーンでは別の液体を使っていると思います。本物だったら大変です(笑)。余談ですが、クッキーはチェコの結婚式に振る舞われるものです。
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